「VC-3000のど飴」なめて当選、ノーベル製菓に大感謝

コンパクトホットプレート

ノーベル製菓の「VC-3000のど飴」のパッケージに「コンパクトホットプレート」が合計1500名様に当たるとあったので、6回応募してみた。
1ケ月後、ある日、注文した覚えのない荷物が佐川急便から届いた。すぐに開梱してみたら身に覚えがある懸賞の「コンパクトホットプレート」が当選したではないか。「有難う…」と思わず叫んでしまった。

コンパクトホットプレート

多くの応募の中から選ばれたに違いないだろう。ラッキー…。「VC-3000のど飴」は、いつも美味しくなめている。のどがスッキリした上で景品がもらえるなんてすばらしい。
「VC-3000のど飴」が嬉しいところはノンシュガーで1袋に3000mgのビタミンCが入っていることだ。

御挨拶

商品名の「VC-3000」は1袋にビタミンC(Vitamin C)が3000mg入っていることからのネーミングだろう。
1粒(3.8g)当りの栄養成分は、
エネルギー(8.5kcal)、
たんぱく質(0.01g)、
脂質(0.01g)、
炭水化物(3.72g)(糖類0g)、
食塩相当量(0.004g)、
ビタミンC(140mg)、
ビタミンB1(0.007mg)、
ビタミンB2(0.008mg)だ。
キャンデーの原材料は、還元パラチノース、還元水飴、ハーブエキス、カリンエキス/ビタミンC、香料、甘味料(アスパルテーム・L-フェニルアラニン化合物、ステビア)、着色料(ウコン)、ビタミンB2、ビタミンB1と包装袋の裏面に表記があった。

VC-3000のど飴ノーベル製菓

藤澤長治が、1929年(昭和4年)に、大阪市東成区で「大長製菓所」を創業。創業当初は「星カブト印」の商標でキャンディの製造を行った。
のちに現在の本社を置く大阪市生野区に移転。その後、戦中・戦後の食糧難の時代の下、配給用パンやキャラメルなど製造品目は幾度も変遷しながら、1949年(昭和24年)に湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞した際に、「ノーベル」の登録商標を得る。
1952年(昭和27年)にはノーベルジュース糖・ノーベル賞飴を発売。
これらがロングセラーとなり、1959年(昭和34年)には、社名をノーベル製菓に改称。社名における「ノーベル」は、創業者の藤澤が湯川と交友関係にあったことによるもので、ノーベル賞から名を取ったもので、創設者のアルフレッド・ノーベルとは無関係。

1980年代には眠気覚まし用に「スーパーレモンキャンディ」を発売し、ロングセラーにすると、その後も「VC-3000のど飴」「はちみつきんかんのど飴」などのヒット商品を多数世に送り出した。
ノーベル製菓の看板商品の一つである「VC-3000のど飴」のCMキャラクターに天童よしみを起用した際、「なめたらあかん〜」のキャッチコピーが大受けして5〜10倍の売り上げを記録した。
ノーベル製菓の開発部長(当時)によると、「新発売から2年後にCMを始める」という規定を作っており、新ジャンルのブランドの発売から2〜3年様子を見てから、売上が好調なものを選び、その商品がもっと売れる様にCMを作るという。

新人賞歌手、新浜レオンに大型歌手の予感

新浜レオン

令和元年5月1日にシングル『離さない 離さない』でデビューした千葉県白井市出身の新浜レオン。令和デビューであり、父親は『伯方の塩』のCMソングでも知られる演歌歌手の高城靖雄であることでも話題を集めている。
父親の血を受け継いだ美声、大東文化大学のミスターコンテストでグランプリを受賞したルックス、身長180センチ&高校野球で鍛えた肉体。三拍子揃った新浜レオンが志す、演歌/歌謡曲の魅力。

新浜レオン

令和になった5月1日にシングル『離さない 離さない』で、デビューし、オリコンのウィークリーランキング演歌/歌謡部門で1位を獲得した。
令和元年日本レコード大賞新人賞を受賞。惜しくも最優秀賞新人賞は逃したものの、将来、記憶に残る大歌手になって欲しい。
新浜レオンは、これ以上ない第一歩を踏み出させた。応援してくださるみなさんのおかげだ。

「離さない 離さない」とカップリング曲の「心奪って」は、2曲とも作曲は大谷明裕さん、編曲が矢野立美さんという演歌/歌謡曲界の大御所。

新浜レオン

新浜レオン自身もデビュー作でこういう偉大な先生方に曲を書いていただけるとは思っていなくて、驚き、すごく光栄なこと。
実は矢野先生とは、先生が手がけられた他の歌手の方のレコーディングを見学させていただいたことがあった。
たくさん勉強させていただいた矢野先生が、今回の曲で編曲していただいたということが、本当にまさかのことで信じらない。
作詞の渡辺なつみさんはJ-POP畑という印象で、この2曲からは、演歌/歌謡曲とJ-POPの融合のような、新しい試みを感じた。

大学時代に大東文化大学の「ミスター大東コンテスト2017」で、グランプリをいただいたが、自己アピールで今回カップリングにカバーを収録させていただいた「青春時代」(森田公一とトップギャラン)を歌った。
その時に、20歳前後の同世代から、昭和の歌謡曲を受け入れてもらえたという感触があった。
その経験からも、僕と同世代の20代やもっと若い10代の人の中にある、「歌謡曲だから聴かない、演歌だから聴かない」という先入観をなくしたいと思って、今活動をしている。
そういう部分では、渡辺なつみ先生の歌詞が、その大きなきっかけの一つになると思っている。

新浜レオンは友だちに、何度ムリヤリ聴かせたことか分からない。「ちょっとこれ、聴いてみて」って。でも実際に聴いてもらったりすると、「意外と新しいね」という声をたくさんもらうんだよ。
そのうち気づくと友だちが口ずさんでくれていたり、カラオケに行くと「あの曲を歌ってよ」と言ってもらったりするようになった。
大学のミスターコンテストで「青春時代」を歌った時も、曲を気に入ってもらえた反応がほとんどだった。だからまずは、聴く環境やきっかけを作ってあげることが、大事なのかなって思う。

新浜レオン

徳永ゆうきさんが「Lemon」を歌って、それをきっかけに演歌/歌謡曲の若手に注目が集まっています。素晴らしい先輩が、そういう状況を作ってくれた。その中で、まずは「離さない 離さない」で、新浜レオンという存在をより知っていただけたらと思っている。
小学生の頃は、父親が演歌歌手というだけで、古くさい生活を送っているみたいなイメージで見られて、嫌な思いをしたこともあった。
しかし、幼少期から演歌/歌謡曲が当たり前のように生活の中にあって、車では常に演歌が流れていたし、テレビをつければ歌謡番組を観るといった環境だった。
なので周りの友だちと違っていても気にしていなかったし、むしろ「何で聴かないのかな?」と思っていたくらいだった。
もちろんJ-POPやロック、アイドルなども耳にしていたと思うが、自分が音楽を志す上で歌謡曲を選んだのは、そこにどんな魅力を感じたからなのだ。

まず大きかったのは、父への憧れだ。憧れの父親が歌っているジャンルだから、それだけでリスペクトの気持ちがあった。そうしていろいろな曲を聴いていった中で感じたことは、歌詞で表現されている情景や世界観が、とても浮かびやすい音楽だということだ。
確かに演歌や歌謡曲は、港や雪景色など、情景やシチュエーションが具体的な曲が多いかもしれない。

それに趣味が釣りであることや、学生時代に野球をやっていたことも、他のどのジャンルよりも響いた一因かもしれない。
野球は、汗と土にまみれて白球を追う。泥臭さがあるところや涙が付きもので、それは演歌/歌謡曲に通じるものがある。

演歌の舞台として、漁港は定番。だから、川釣りはちょっとイメージが違う。ただ海釣りでも、ルアーを付けて行うシーバス釣りなどスポーティーなものもあるけど、やはり餌を付けて岸壁から釣りたいタイプ。

例えば、野口五郎さんや西城秀樹さん、郷ひろみさんといった先輩方の映像をネットで観ていた。今あるJ-POPと歌謡曲の違いは何なのか、僕の中ではその答えをまだ持っていないけど、自分なりに答えを追求していきたいと思っている。
ただ歌を表現するという意味では、ジャンルに対するこだわりはなくて。新元号になったことですし、J-POPだろうと歌謡曲だろうと演歌だろうと、そういう垣根を越えて、幅広い世代から愛される歌手になっていきたい。

個人的な見解ですが、J-POPは曲と歌のバランスによる音楽で、聴くための音楽。歌謡曲は、謡という字そのものに歌うという意味があるので、一緒に歌ったり歌いたくなったりするような、歌うことに重きを置いた音楽という違いがあるかもしれない。

実際に重きを置いているのは、自分が歌って気持ちよくなるのではなく、聴く人にとって気持ちいいと感じてもらえるものでなければいけないということ。
どうやったら多くのみなさんに届けられるか、みなさんの心に残っていただけるかを突き詰めている。
デビューする以前には、短期間ですが民謡を習っていた時期があって、そこで学んだ声を張り上げたりこぶしを回す歌い方が、自分の特徴だと思って、以前はずっとそういう歌い方をしていた。
でもそれは数ある表現方法の一部でしかなくて、みなさんの元にお届けするためには、もっとそれを抑えなければいけないと思うようになった。

「離さない 離さない」を聴くと、確かにこぶしをバンバン回している風ではない。そこは抑えめにしている。
レコーディングの時にスタッフさんと相談しながら、すごく抑えて歌った。これは熱さみたいな部分もそうで、「離さない 離さない」という曲は情熱的な歌詞なので、どうしても「もっともっと」と熱さを前に出してしまうところがあって。それは高校野球をやっていた時のような情熱を、そのまま歌にも込めてしまっていたからだ。
確かに曲の世界を通して、自分の中にあるものが表現できたらいいなと思ってはいるがが、それをそのまま出すだけではダメで。
こぶしや歌い方と同じように、あまり出し過ぎるのは違うんだなと気づくことができた。

千葉県内に家族が増える神社が実在

大鷲神社

妊活中の方、子宝に恵まれない方、安産祈願の方が多く訪れている「子宝神社」で知る人ぞ知る千葉県の地方に大鷲神社があった。
関東には、いろいろなスポットがある。せっかくなら、人気の高いところ、パワースポットとされている場所に行きたいと思う方も多いのではないのか。
多くの神社の中から、人気の高い子宝神社をピックアップした。

当神社の鎮座地である千葉県栄町安食は、もとは下総国埴生郡安食村と呼ばれ、古言によると下総国の「総」は布(麻)のことを表し、麻の縁の地であったと思われる。

大鷲神社

主祭神の天乃日鷲尊は、その子孫代々麻植の神として神功があり、麻に係わりのある当地においても祭神になっている。

文化文政の年代には鷲宮(鷲賀岡神社)と称していましたが、明治二六年頃より、大鷲神社と言うようになった。

また、江戸時代に春日局の崇敬が非常に厚く、竹千代君が三代将軍となったとき、そのことを祝い、将軍の船の舳先に魔除けとして飾ってあった金の大鷲を将軍より願い受けて奉納したといわれ、現在宝物として保存され出世開運の神として知られている。

社務所に氏子さんがいたが、神職様がご不在との事。
この日は他にも東京から参拝に来て御朱印をお願いされた方がいたようで、次に神職様がいらっしゃる日を教えて下さったり、申し訳なさそうされたりと、こちらが恐縮してしまう。
この日はなかったのだが、書き置きがある時もあるようだ。
千葉県印旛郡栄町の安食駅近くにある大鷲神社。

大鷲神社と書いて「おおとりじんじゃ」と読む神社も多いが、こちらは「おおわしじんじゃ」と読む。

地域の方には「お鷲さま」として親しまれている。
創建は不明との事だが、徳川家との縁のある神社。
江戸時代には三代将軍・徳川家光の乳母春日局(かすがのつぼね)の崇敬を受けたとある。
家光がまだ竹千代といっていたころ当社に竹千代の出世を祈願し、三代将軍になると報恩のため、将軍の御座船天地丸の金色の鷲を献納、現在も大切に保存されている。

春日局は、ドラマ「大奥」や以前大河ドラマ「春日局」にもなった事があるが、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられ、近世初期における女性政治家の筆頭とも挙げられる人物であり、家光以外にも縁故により出世した人物が多い。
そのため、古くから出世開運の神として尊崇を集めていた。

大鷲神社

なお「大鷲神社」という事で、「酉の市」、毎年12月の初酉の日から3日間の開催される。都内の主流は「浅草 鷲神社」など、11月に開催される事が多いが、古くから12月に行われる場所も多い。
鷲神社の本社とされる埼玉県久喜市の「鷲宮神社」では12月の初酉の日に行われる。

本殿は、天保二年(1831年)に造られたもので、かなり細かい彫刻が現存している。回り込める形になっているので、周囲から本殿の彫刻を見る事ができるのが嬉しい。
海老紅梁に竜の丸彫りがされていたり、本殿にある琴を奏する彫刻など実にお見事。なお、本殿の横に画像にもある「琴を奏する彫刻の不思議」という掲示がされていた。
それによると毎年行われる酉の市で、境内特設舞台で歌った当時無名に近い歌手達が、翌年のNHK紅白歌合戦に出場を果たすという逸話。
近年酉の市舞台で歌った人だと、瀬川瑛子、三笠優子、松原のぶえ、鳥羽一郎、冠二郎など。
大御所ばかりなのだが、この逸話が本当なら、大した「出世開運」のご利益である。

当社はこの「大鷲神社」だけでも充分見どころがあるのだが、境内社が豊富で、その中の一つ「魂生神社」が、何ともディープなエリアになっており、一部の人たちには名が通っている。
五穀豊穣、縁結び、子授け、安産、夫婦和合の神で、魂生神として高さ2.5m、周囲2.3mの石製の男根が鎮座している。
その大きさは日本一との事だ。

内部には御神体として多くの男根を模したものが祀られており、参拝者も同様の形をしたものに願い事(多くは安産や子授けを書いていた)をして、こちらに奉納するようだ。

近くには「縁むすび合体椎の木」「子授け乃大樹」など、性神信仰に纏わる御神木も。性神信仰としては川崎の「金山神社」(かなまら祭り)が有名であるが、こちらも中々に濃いエリア。

他にも色々と境内社が多く見どころも多い。
一の鳥居をくぐった表参道には、かなり急な斜面の男坂と、緩やかな女坂があるのだが、男坂から上ると「大鷲神社」側へ、女坂から上ると先に上述の「魂生神社」側へ行く事になるので、個人的には先に男坂を頑張って上ってもらい、後からディープな「魂生神社」側へ行き、女坂を下りて戻ってくるのがオススメ。

社務所には氏子さんが常駐しているようで、この日も氏子さんが色々話を聞かせてくれた。

御朱印は神職さんがいないためできないそうだが、日によっては神職さんもいらっしゃる時もあり、いなくても書き置きのものが用意されている日もある様子。御朱印が欲しい方は事前に確認しておくとよい。
ちなみに社務所では「魂生神社」にまつわる男根を模した飴やお守りなど、ちょっとアレな授与品も色々置いてあった。

春日局に庇護された縁のある大鷲神社。本殿の彫刻など見どころもあるのだが、やはり境内社の魂生神社のインパクトに驚かされる。
あまり来るようなエリアではないのだが、この日も都内から参拝に訪れた方がいたようで、知る人ぞ知る「出世開運」、そして「子授け」「安産」「夫婦和合」などのご利益がある神社。
個人的には色々と見どころの多い良社に感じた。