ビルマからミャンマーへ

ビルマの竪琴
日本では、「ビルマの竪琴」は、小説でも、映画でも有名である。1985年7月20日、劇場公開映画の「ビルマの竪琴」の印象が心に強く残っているので現在のミャンマーよりビルマと言ったほうがピンとくる。
1945年夏、ビルマ戦線の日本軍はタイ国へと苦難の撤退を続けていた。
そんな逃避行の最中、手製の堅琴に合わせて「はにうの宿」を合唱する一部隊がいた。井上小隊長が兵士の心をいやすため、歌を教えこんだのである。
堅琴で判奏するのは水島上等兵であった。小隊は国境近くまで来たところで終戦を知り、武器を棄てて投降した。

彼らは南のムドンに護送されることになったが、水島だけは附近の三角山で、抵抗を続ける日本軍に降伏を勧めるため隊を離れて行った。
小隊はムドンで労務作業に服していたが、ある時、青いオウムを肩に乗せた水島そっくりの僧とすれ違った。彼らは僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず歩み去って行った。
三角山の戦いの後、ムドンへ向かった水島は、道々、無数の日本兵の死体と出会い、愕然とした。
そして自分だけが帰国することに心を痛め、日本兵の霊を慰めるために僧となってこの地に止まろうと決意し、白骨を葬って巡礼の旅を続けていた。
物売りの話から、井上はおおよその事情を推察した。
彼はもう一羽のオウムを譲りうけ、「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンニカエロウ」と日本語を覚えこませる。
数日後、小隊が森の中で合唱をしていると、大仏の臥像の胎内にいた水島がそれを聞きつけ、思わず夢中で堅琴を弾き始めた。兵士たちは大仏の鉄扉を開けよとするが、水島はそれを拒んでしまう。
その夜、三日後に帰国することが決まり、一同は水島も引き連れようと毎日合唱した。井上は日本語を覚えこませたオウムを水島に渡してくれるよう、物売りの老婆に頼んだ。出発の前日、水島がとうとう皆の前に姿をあらわした。
収容所の柵越しに、兵士たちは合唱し、一緒に帰ろうと呼びかけるが、水島は黙ってうなだれ、「仰げば尊し」を弾奏した。そして、森の中へ去って行く。
翌日、帰国の途につく井上のもとへ、オウムが届いた。オウムは「アア、ヤッパリ、ジブンハ、カエルワケニハ、イカナイ」と叫ぶのだった。この「ビルマの竪琴」の映画は中高年なら多くの人が鑑賞した。

僧侶
ビルマの独立に先立つ数十年の間、独立運動諸団体は来るべき新しい国の名を模索していた。その国はビルマ語話者のみならず多くの民族集団から構成されるはずであった。
1920年代、一部の団体は19世紀にイギリスによって消滅させられた旧ビルマ王国の正式名であるMyanmaを強く支持していた。
1930年代、アウンサンなどに指導された反英政治団体「我らのビルマ協会」(タキン党)は口語体の呼称Bama(バマー)を支持し、狭義のBama(ビルマ族)のみならず諸民族を包括する名称だという新たな解釈を与えた。
第二次世界大戦期に日本の占領軍によって設立されたビルマの傀儡政権(ビルマ国)の英語名はタキン党の解釈に沿ってBamaとされた。その日本語名はオランダ語の名称Birmaから3つの子音を五十音に転写して「ビルマ」となった。
1948年の独立に際し、新しい国の名として選ばれたのはビルマ連邦だった。
その後1962年のクーデターを経て1974年にはビルマ社会主義連邦共和国に改名された。
歴史的にはBamaとMyanmaは共にビルマ族のみを指し、少数民族は含んでいなかった。にもかかわらず、ビルマ政府は独立直後に公的なビルマ語語法においてMyanmarとBurmaを差別化した。
かつてのタキン党とは逆に、Myanma/Myanmarが全ビルマ国民を指す名称へと拡張された一方、Bama/Bamarの意味は従来通りとされ「ミャンマー」が正式な国名として採用された。
国名に関しては、委員会は3つの理由で英語名BurmaをMyanmarに置き換える決定を下した。
第1に「ミャンマー」(Myanma)はビルマ語における公式の国名であり、委員会の目的は英語地名をビルマ語地名と発音に合わせることであった。第2に委員会は「ミャンマー」(Myanma)という語が「バマー」(Bama)よりも広く少数民族を包括すると考えており、この点を英語名に反映させようとした。
最後の理由は、軍事政権が長らくビルマ語に対して抱いていた警戒心である。

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